2009年12月12日

脾臓

脾臓(ひぞう)は脾動脈および脾静脈に介在する臓器である。以下の記述は特に断りがない限りヒトの脾臓についての記述である。
左の上腹部にあり、上方は横隔膜に接し内側は左の腎臓と接している。前方には胃が存在する。肋骨の下に隠れており通常は体表からは触れない。

なお、東洋医学でいう五臓六腑(五臓:肝・心・脾・肺・腎)の一つである「脾」は「脾臓」とは異なっている。五臓の「脾」は主に消化吸収などを担っており、解剖学的に対応する臓器はむしろ「膵臓(すいぞう)」である。これは脾臓と膵臓を別の臓とは考えず、ひとつの臓(脾臓+膵臓=脾)と考えられていたのではないかという説もあるが、正確な理由は現在もわかっていない。膵臓は黄色い組織であるため、脂肪と考えられて脾臓に膵臓の機能が割り当てられた可能性もある。また、横っ腹が痛くなる原因は脾臓が急激な動作によってだんだん縮んで痛みが起こると考えられている。

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脾臓の大きさは、長さ12cm、幅7.5cm、厚さ5cm程度である。重量は内部の血液量で変化するが100~200g程度である。柔らかく色は赤紫色である。

脾臓の表面は白く厚い被膜で覆われている。一部は動脈を伴い脾臓の内部へと入り込んでいる。この構造を脾柱という。脾柱は脾臓の内部で複雑に絡み合い網目状となる。網目は柱網と呼ばれ脾臓の形態構築にかかわっている。網目の内部は白い斑状の組織である白脾髄と赤い組織の赤脾髄で埋められている。白脾髄はリンパ球の集まりであり免疫機能を担っている。赤脾髄には毛細血管が豊富に存在し赤血球に富んだ組織である。
免疫機能:白脾髄でB細胞(Bリンパ球)、Tリンパ球、形質細胞を成熟させ、血液を増殖の場とする病原体に対する免疫応答の場となる。脾摘された人がマラリアなどに感染すると重症化しやすい。

2009年12月01日

禁煙それ自体は歴史的に古

禁煙それ自体は歴史的に古く、1575年にメキシコで禁煙条例が出され、メキシコの教会またスペインのカリブ植民地で禁煙が命じられた。またオスマン帝国でも1633年、喫煙を禁止した。同時期に欧州でも喫煙者を教会から破門すべきかどうか議論された。16世紀後半にはオーストリアやバヴァリアで、また1723年ベルリンで、1742年ケーニヒスベルクで禁煙条例が出された。こうした禁煙条例は、1848年の革命で廃止された。

 国民規模で行われた禁煙運動はナチスによって行われた。ナチスは大学、郵便局、軍用医院などが禁煙にされた。  第二次世界大戦後から現在にいたる禁煙運動は主にアメリカ合衆国からはじまっている。
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世界では毎年約300万人が喫煙を原因として死亡しているとされるが、統計数字の信頼性およびデータ間の因果関係については議論が続いている。たとえばJ・エンスロームは、禁煙運動を推進するものらは、学説やデータを教義(ドグマ)としており、科学が科学である特性のひとつである反証可能性を許さないこと、また科学的な仮説はあくまで価値中立的であることなどを指摘したうえで、かつてソ連政府がルイセンコの提唱した学説のみを唯一正統の学説とし他の学説を弾圧し粛清したことを想起しており、過剰な禁煙運動をスターリニズムに比している。

世界保健機関(WHO)では禁煙を強く推進しており世界禁煙デー(毎年5月31日)を定めている。なお、1993年にWHOの国際傷害疾病分類第10版(ICD-10)において、喫煙は「精神作用物質による精神及び行動の障害」に分類されている。

2009年11月27日

救急医療

救急医療(きゅうきゅういりょう)とは、疾患や、外傷、中毒等に対して緊急の処置ならびに対応の必要があるものに行われる医療体制。

救急医療には覚知、搬送、診療の3つが重要となる。まずはバイタルサインを確認して、心肺停止などの重症例では蘇生処置も加える。「素早い通報」「素早い蘇生処置」「素早い搬送」「素早い診療」の4つを「救命の連鎖」と呼ぶこともある。

疾患は症状が完成したか緩徐に進行している慢性期と違い、急性期は症状が時間とともに変化し、その間の適切な処置によって転帰が大きく変化する余地が大きい。特に、心肺停止状態では救急車到着までの間の蘇生処置が転帰に大きく関わり、来院時心肺停止(CPAOA)の予後は非常に悪い。
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心肺停止の場合、救急車到着前、そして救急車乗車後の病院到着前の処置が非常に重要となってくる。救急救命士制度の創設により、救急車内での処置が拡大されている。また、救急救命士のスキル向上のためにACLS(二次救命処置)やJPTEC(病院前外傷処置)を受講する救急救命士も増加している。また、一般人でも自動車運転免許取得の際には心肺蘇生法(人工呼吸・心臓マッサージ)の受講が必須項目とされている。さらに意識の高い人の中ではAED(自動体外式除細動器)やBLS(一次救命処置、AED操作法含む)の講習を受ける人が出てきている。こうしたプレホスピタルでの処置が蘇生率に非常に大きく関わっている。

2009年11月13日

日本政府の対策

濱口雄幸首相が、ロンドン海軍軍縮条約調印に伴う統帥権干犯問題により右翼に狙撃され、内閣が倒れると、同じく立憲民政党から第二次若槻禮次郎内閣が成立したが、有効な対策を講じることができないまま早々と倒れ、立憲政友会から犬養毅内閣が成立した。犬養内閣の高橋是清蔵相は、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレーション政策を180°転換し、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った(これをきっかけとした軍拡政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した機動的軍縮の試みにもかかわらず、軍部の意向により継続される。以後も満州事変・日中戦争を通じて軍部の発言力が増していくことになる)。金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気も急速に回復し、1933年には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準を回復した。
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日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「ソーシャル・ダンピング」だと批判を受けた。米英仏など、多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏でブロック経済を構築した(英:スターリング・ポンド・ブロック、米:ドル・ブロック、仏:フラン・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、日満支円ブロック構築を目指して大陸進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しいドイツ・イタリアも自国通貨の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となった。

2009年11月01日

アテローム性プラーク(粥腫)は

アテローム性プラーク(粥腫)は、血管内膜下にリポ蛋白(コレステロールの担体)が蓄積されて起き、血液の流れの遅い部位(低壁せん断応力部位)に好発するが、その詳しい仕組みについてはまだよくわかっていない。フラミンガム研究などをはじめとする各種疫学研究により、現在、悪玉コレステロール(低密度リポ蛋白LDL)の血中濃度が高い場合、耐糖能障害をふくむ糖尿病患者、高血圧患者、喫煙者などでは動脈硬化が進行しやすいことが証明されており、こういった危険因子をコントロールして発症予防をおこなうことが推奨されている。具体的には食生活の改善、運動、禁煙などが有効であり、生活習慣を是正した上での降圧薬、脂質降下薬(特にLDLコレステロール低下作用のあるスタチン系)、糖尿病治療薬も併用されうる。

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コレステロール低下療法については日本人における有効性を疑問視する研究結果もあれば有効性を支持する研究結果も出されている。これを支持する立場では、各種の海外研究と日本人における研究の比較研究(メタアナリシス)や、MEGA studyで虚血性心疾患の1次予防が認められたとして、日本動脈硬化学会による動脈硬化性疾患診療ガイドライン(2002年版)においても、危険因子の数に応じた患者カテゴリー分類と十分なコレステロール低下療法が推奨されているが、これに反対とする立場も存在し意見が対立したままである。

他にもエイコサペンタエン酸(EPA)などが日本人の動脈硬化性疾患予防に有効であるとした疫学研究結果が報告されている。

2009年10月21日

交通広場は

交通広場は交通施設と都市計画道路との結節点であり、交通の集中発生量が多く、これらを円滑に処理するだけではなく、都市の玄関として美観施設を備えた幹線街路つまり広場型の道路である。駅前にある場合は特に駅前広場と呼ばれるが、これは交通広場である。駅前広場は、道路に附属する交通広場として決定する都市施設であり、交通のニーズにあった充分な空間や機能の確保を図るとともに、都市の「顔」としてのシンボル性、オープンスペースとしての役割にも配慮した整備を進める必要があるが、駅前広場をはじめとする交通結節施設は、異種の交通機関を相互に連絡し、多様な交通需要に対応した体系的な交通サービスを提供する拠点である。

なお、新宿駅西口地下広場は、デモや集会を規制し、広場を通路に改称した例である。
橋詰とは、橋のたもとを指す。都心に立地する橋では、橋詰めに生じる空間に広場を整備し、景観的に好立地である橋の特色を活用した空間整備の試みが積極的に行われている。東京の日本橋は、1980年の修繕時に景観整備として4箇所の橋詰めに広場が新設された。橋詰めの地盤を掘り下げて広い大理石のテラスにし側面からも橋が眺められるようになり、また水を滝のように流す壁泉を造り、樹木を配置し、夜間はライトアップされて、演奏会や観光のための人力車による橋巡などのイベントも行われている。
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日本では建設省都市局が、1980年にモデル事業として広場公園事業をスタートさせている。主として商業・業務系の土地利用が行われる地域において都市の景観の向上、周辺施設利用者のための休息等の利用に供すること、にぎわいの創出や市民の休息、鑑賞に資するために、市街地の駅周辺に配置する公園。繁華街の中に担保性のある広場を設けるのがねらい。横浜市の開港広場や埼玉県川口市の樹モール・コミュニティプラザなどがある。

2009年06月21日

近代的な天気予報の時代は到来しなかった

1837年の電報の発明まで、近代的な天気予報の時代は到来しなかった。この発明までは蒸気機関車より少しでも早いリアルタイムの大気の状態についての情報は伝えることができなかったからだ。しかし電報の発明は、ほぼ瞬時に広範囲から気象の状態に関する情報を収集することが可能となった。このことにより、はるか風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。

科学的な天気予報の誕生に功績があったともっとも信じられている人物は、フランシス・ボーフォート(おもにBeaufort scaleとして知られる)と彼のprotegeロバート・フィッツロイ(the Fitzroy Barometerの開発者)である。2人はBritish Naval and Governmental circlesで影響力をもった人物で、当時新聞で嘲られていたが、彼らの仕事は、科学的信頼を獲得し、英国艦隊によって受け入れられ、今日の天気予報知識のすべての基礎を形成した。

20世紀の間に、大気変化の研究を取り入れた気象学は大きく進歩した。 数値予報(NWP)の考えは1922年にルイス・Fryリチャードソンによって提示された。しかしながら、天気予報を成り立たせるために必要な膨大な計算をこなすコンピュータはその当時存在しなかった。 1970年に初めて、NWPは世界中の天気予報業務を行うことが可能となった。
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日本 [編集]
明治17年6月1日: 気象庁の前身である東京気象台から日本で最初の天気予報が発表され、以降第二次世界大戦の開戦(昭和16年12月8日)による機密保持に伴なう中断に至るまでの毎日3回日本全国の天気を予報し、東京市内の交番で掲示された。予報内容は日本全国を一文で表わし第1号の予報は「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」と発表された。なお、“春一番が吹いた日”など各種の観測データは1876年より蓄積されている。
大正14年3月22日: ラジオ放送による天気予報の開始。(ラジオ放送開始日)
昭和20年8月22日: 終戦の8月15日から一週間後にラジオの天気予報が復活。
昭和28年2月1日: テレビ放映による天気予報の開始。(テレビ放送開始日)
昭和34年: 数値予報業務の開始。
昭和55年6月1日: 東京地方で降水確率予報を開始。
平成7年4月1日: 天気予報の自由化。予報業務許可事業者が独自の予報を発表することができる。

2009年06月03日

新卒一括採用は機会均等の原則に

新卒一括採用は機会均等の原則に反しているという見方もある。日本では、既卒と新卒が同様には扱われないのが現実である。新卒時、事情があり就職活動が出来なかった者も既卒として扱われることにより、多くのな機会を損失してしまう。

仏教の中心思想には多様なものの共存というものがあるが、第二次世界大戦あたりから統一性が過大視されるようになった。現代のグローバル社会において、統一性は目指すべき方向ではない。時代錯誤である。将来、沢山の移民が入ってくるかもしれないが、その時に統一性では対応できない。また高度経済成長時代を過ぎた日本において、統一性は逆に非効率になりうる。
ゲーム 学習 近畿東海 美容整形 旅行 審美歯科 フランチャイズ 香水 就職 仏壇 多汗症 懸賞 リラク インテリア パソコン 墓石 教育 九州沖縄 ネイル スポット しわ取り 内職 キャッシング 雇用 子育て 介護 ファッション 健康 家具 学習 特産物 家庭教師 家庭教師 ホテル 化粧品 水族館 ネイル 旅行代理店 家具 クレジット バイク 介護 アウトドア 学習指導 バイク 音楽 交通地図 ケア 遊園地 ネイル

日本の雇用スタイルは、新卒一括採用で大量採用し、終身雇用で見られるような長期雇用を前提としている。従って、アウトサイダーが参入出来にくい形になっている。この形は求職者にとり、リスクを新卒時に集中させる形になる。それ故に、新卒時に何かしらの理由で就職活動出来なかった者や、景気が悪い時に卒業した者は、一生新卒時の事を引きずる事が多い。求職者のリスクは、生涯に渡り分散させるのが好ましい。

本来、博士というのは欧米、中国、シンガポールに見られるように就職市場では歓迎されるものである。しかしながら日本や韓国では、これと逆の現象が見られる。つまり博士が敬遠されるのである。新卒一括採用で、学士、修士を中心に採る為、年齢が高い博士は敬遠される傾向にある。

個々の企業にとって、既卒者を採らなくてもそれほど大きな損失にならないかもしれない。しかし新卒一括採用は全体経済では、多大な損失をもたらす。既卒が職業訓練を与えられることも無く、ニートやフリーターになっていくのは国家の大きな損失である。

日本総合研究所は「雇用危機のマグニチュードと対応策の在り方」の中で、新卒一括採用を見直し、縦割型労働市場を横断的労働市場に変革すべきだと述べている。職種限定型社員の増加を職種別労働市場の整備とともに進め、職種を軸とする企業横断的な労働移動を円滑かすべきだと主張している。

2009年04月30日

ジェームズタウンの虐殺

1621年、入植者に「羽根のジャック」として知られていたパウハタン戦士の将軍が入植者を殺害し、その従者に銃で射殺される事件が発生した。それをきっかけに、パウハタン族の指導者オペチャンカナウは入植者勢力の拡大を軍事的・文化的脅威と見なし、入植地に対する全面攻撃を決断した。1622年3月、オペチャンカナウはジェームズタウンに奇襲攻撃を仕掛け、バージニア植民地の全入植者の約3分の1にあたる約347人を殺害した。入植者はパウハタン王国とは戦争あるのみという意識で団結し、バージニア会社の幹部もそれに賛成した。

バージニア植民地では、タバコによる恩恵をこうむるようになっても、安定した状態にはならなかった。またバージニア会社でも当初期待されたほどの利益は上げられなかった。先住民族との関係も、ジェームズタウンの虐殺以降、全面的な対立姿勢が続いた。こうした状況の中、国王ジェームズ1世は1624年にバージニア会社の勅許状を廃止し、バージニア植民地を王領植民地とした。

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バージニア植民地にはそれまでに約8500人の入植者があったが、そのときの人口は1275人であった。バージニア会社による植民事業はまったくの失敗であったが、年季契約奉公人の使用、人頭権による土地配分、議会の招集など、困難な創設期に採用された方策は植民地社会に根を張っていた。これらの初期の慣習と、苦難を乗り切った入植者の気質とにより、入植者には自立的傾向が芽生えた。

王領植民地となったバージニアに対し、国王は総督と評議会を任命したが、植民地の議会には承認を与えなかった。だがバージニア植民地では住民代表による議会が毎年開催された。1634年には議会の決定により地方制度として郡制が採用された。これによりバージニア植民地は8つの郡に分けられた。各郡には郡裁判所が設置され、治安判事が行政と司法にあたることになった。この制度は、他のいくつかの植民地でも採用された。

その後チャールズ1世の時代となった1639年、国王は植民地議会を正式に承認した。

2009年04月15日

世界のユダヤ民や宗教的集団

世界に散らばるユダヤ教徒のコミュニティーや宗教的集団には以下がある。

イシューブ(イスラエル(パレスチナ)の地のユダヤ教徒)
ミズラヒム
北アフリカのユダヤ人(マグレビーム) Maghrebim cf.African Jews
モロッコのユダヤ人
アルジェリアのユダヤ人
フランス植民地統治下のアルジェリアでは、原住民のイスラム教徒が参政権を持たない下級市民とされたのに対し、ユダヤ教徒(セファルディム、ミズラヒム)に対してはフランスの完全市民権が付与された。このため、ユダヤ教徒はフランス本国からの入植者(コロン)と同化し、フランス語を母語とするようになり、自らをヨーロッパ人と考えるようになった。このため、アルジェリアの独立時には多くのユダヤ教徒がフランス人としてコロンとともにフランス本国に引き揚げコロンとひとまとめに「ピエ・ノワール」と呼ばれるようになった。ただし、独立以前にもフランス内地へ移住するユダヤ教徒がいなかったわけではない。これらの人々の中からはフランスで著名な歌手・俳優なども多く輩出されている。(ジダン、沢尻エリカ、クロード・ルルーシュ、エンリコ・マシアス(セファルディム)など)。
チュニジアのユダヤ人 Jews in Tunisia
ペルシア・ユダヤ人
イエメン・ユダヤ人(テイメン) Yemenite Jews
ベタ・イスラエル(ファラシャ)(エチオピアのユダヤ人)

山岳ユダヤ人(タート・ユダヤ人。ダゲスタン、アゼルバイジャン、アルメニアのタート人社会の内部)
グルジーム
ブハラ・ユダヤ人 Bukharan Jews (タジキスタンから中央アジア全土)
インドと周辺のユダヤ人 Jews in India
コーチン・ユダヤ人
クナナヤ Knanaya(キリスト教徒)
ベネ・イスラエル
ボンベイ・ユダヤ人
バグダーディ(イラク系)
マニプール・ユダヤ人(集団改宗者)
中国のユダヤ人 Jews in China
開封市のユダヤ教徒 Kaifeng Jews [1]
ヘレニスト
ロマニオット(「ローマ人」、ユダヤ系ギリシャ人)
イタリアのユダヤ教徒 History of the Jews in Italy (北部にはアシュケナジムが多い)
ツァルファーティー(フランス系ユダヤ教徒) History of the Jews in France 消滅した世代と残留者、新しい世代(諸地域・諸国からの移民)
セファルディム
アシュケナジム
アイルランドのユダヤ人 Jews in Ireland (ツァルファーティー・セファルディムとアシュケナジム)
アバユダヤ Abayudaya
レンバ族(ジンバブエ) Lembas
サマリア人
ブラック・ジュー
ハザールのユダヤ人
カライ派
クリムチャク人
ユダヤ=キリスト教徒 Judeo-Christians
メシアニックのユダヤ教徒

歴史 [編集]

古代 [編集]

旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウルから部族を引き連れてカナンの地(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。彼らは「移住民」という意味のヘブライ人と呼ばれた。この付近で遊牧生活を続けたヘブライ人は、紀元前17世紀頃カナンの地から古代エジプトに集団移住するが、やがてこの地で奴隷とされる。その後、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(「出エジプト」)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人(いずれもフェニキア系民族と考えられる)を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。

紀元前10世紀頃、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国したが、ソロモン王の死後、紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(失われた十支族)、さらに南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアの侵攻により滅亡、多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。アケメネス朝ペルシアによる新バビロニア王国滅亡に伴い、捕囚のユダヤ人は解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で自治国として統一イスラエルが復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的には古代ローマの属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年頃、パレスチナ北部ナザレの民から出たイエス・キリストが活動した。

紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名も廃止されて、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という呼称があえて復活された。以来2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して散らばった。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む(「ディアスポラ」)。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫(恐らく農耕民の大部分)は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。

中世 [編集]
ヨーロッパ各地に散った後もユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持したため、キリスト教徒から差別的な扱いを受け、土地の所有や職人(ギルド)への弟子入りが許されなかったが、才覚があったためキリスト教で禁止されていた金融業や商業などを発達させた。(ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』に登場する金貸し、シャイロックもユダヤ人である。) 13世紀になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、公職追放なども行われた。 その後、特に14世紀のペスト大流行の頃からユダヤ人に対する弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、教会から離れた場所に設けられたゲットーとよばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。

7世紀?10世紀にカスピ海北部にハザール王国が出現し、ユダヤ教を国教とした。

近代 [編集]
19世紀後半に入ると古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとする運動(シオニズム運動)が起きた。この運動は第二次世界大戦時のホロコーストをきっかけに盛んになり、後のイスラエル国家建設に繋がっていくことになる。

「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教やイスラムに改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由の一つである。

イスラエル建国以前はイスラム教徒とユダヤ教徒は共存しており信教の自由も存在していた。 また、シオニズム運動によって入植したユダヤ人が古代ユダヤ人の子孫であるのかは疑問視されており、アラブ諸国では彼らはハザール人の子孫であり古代ユダヤ人とは無関係であると信じられている。

年表 [編集]
313年 - ミラノ勅令(ローマ帝国で、これまで弾圧を受けていたキリスト教が公認される)
392年 - ローマ帝国がキリスト教以外の宗教を禁止
529年 - ユスティニアヌス1世、アテネの哲学院(ギリシア哲学)を閉鎖
622年 - イスラム教が成立
6世紀?8世紀頃 - 東ローマとササン朝が全面戦争。ユダヤ人の一部が大挙してアラビアに移住。新都市の建設に協力するが、イスラム教への改宗は拒絶した。その為、短期間、迫害を受ける。
7世紀以降 - イスラム教徒がイベリア半島に進出するに伴い、メソポタミア地方、シリア、小アジア、エジプト、そして勿論マグリブのユダヤ教徒がイベリア半島に移住(セファルディム、ジュデズモ語を参照)
10世紀 - アシュケナジムがライン地方に定着(詳細はアシュケナジム、イディッシュ語、中欧のユダヤ教徒の歴史を参照)
11世紀
十字軍、イスラム帝国分裂の結果、中東のユダヤ教徒が弾圧され、多くがヴェネツィアに移住
カトリック教会がユダヤ教徒をほとんどの職業から追放
この結果、キリスト教が禁止している職業(質屋や金の保管人、両替商などの利子を扱う職業)などにユダヤ教徒が就かざるを得ないことになり、結果的に金融業・銀行業を発達させることになったといわれる(ユダヤ教は異教徒から利子を受け取ることを許している)。このころからユダヤ教徒への偏見・中傷が芽生える。
1246年 - ミンダウカス、リトアニア大公として即位
14世紀初め - ヴワディスワフ1世によってポーランド再統一
1386年 - ポーランド、非キリスト教国であったリトアニア大公国から大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)を国王に迎え入れ、リトアニアと連合(ヤギェウォ朝)
1453年 - オスマン帝国軍、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブル)を陥落させる。オスマン帝国では、この後、ユダヤ難民を受け入れ、ヨーロッパ世界とは異なり、基本的には非ムスリムに対する差別を禁止する、国家による平等社会が整備された
15世紀 - レコンキスタの進展によりスペインのイスラム勢力がキリスト教勢力に追われ、イスラム教国に協力したとされたユダヤ教徒が弾圧される。一部はキリスト教に改宗し、1492年改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。改宗したユダヤ人は、スペインにおいては差別はなくならず、マラーノと呼ばれ蔑まれた。
1569年 - ルブリン合同
1648年 - ボフダン・フメリニツキー(ウクライナ・コサック)の反乱
1772年・1793年・1795年 - ポーランド分割
1786年 - ユダヤ教徒居住区(Jewish Pale, čerta osedlosti)設置
18世紀末 - フランス革命:ユダヤ教徒の権利向上の動きもあり、ユダヤ教徒への弾圧が弱まって行ったが、逆に新反ユダヤ主義が芽生える面もあった
1789年8月26日 - 人間と市民の権利の宣言
1800年代 - ナポレオン戦争
1881年 - アレクサンドル3世即位。ユダヤ教徒弾圧始まる
1883年 - ロシア、イディッシュ演劇の上演禁止(オーストリア・ハンガリー帝国ではこのようなことはない)
19世紀末
東欧で続く弾圧から逃げるため、東欧のユダヤ教徒がパレスチナ(イスラエルの地)に移住し始める。ロスチャイルド家から移住の費用が補助されたといわれる。これが、後のイスラエル建国へとつながる。テルアビブの都市建設などが始まる
ドレフュス事件が起き、シオニズムが活発になる。フランス軍のユダヤ人大尉がスパイの冤罪を着せられた事件
1908年/9/14 - イズレイル・ザングウィル、アメリカのアイデンティティに対し「メルティング・ポット」論(原型が溶かされて一つになる)を唱える
1914年 - ホレイス・カレン Horace Kallen(ユダヤ系)、アメリカのアイデンティティに対し「サラダボウル論」(それぞれの形の色と形を留めたままで共生する社会)を唱え、文化的多元主義(cultural pluralism)を提案する
1918年 - ポーランドが西ウクライナ人民共和国を武力で亡ぼし、東ガリツィヤ(ハルィチナー)をはじめとする一帯を領有
1930年代 - ドイツの独裁体制ナチスによる人種論と「ユダヤ人」の虐殺(ショア、ホロコースト)が行われ、ヨーロッパから数万人のユダヤ人がパレスチナに移住する。600万人以上のユダヤ人が死亡したとされる
1948年5月14日 - 国連決議181号に基づきイスラエルの独立宣言
1965年 - 多文化主義(Multicultur(al)ism)が提唱される
1990年代 - ソビエト連邦の崩壊によりソ連に住んでいたユダヤ人が大量にイスラエルに移住

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